勝負どころ
ナイター練習に行くと、ランニングをする中年層が増えてきたように思います。
走る同世代に感化され、R40もナイターの日は気持ちが入ります。長距離ランナーの存在は、短い距離しか走れない私のモチベーションを高めてくれます。
練習を続けていれば、身体が重たく感じる日もあれば、気持ちが乗らない日もあります。息子のようなご褒美もありません。その日が何となく早く走れない日であることも分かります。
今日は家でマンガでも読んでいたい気分…。でも、いつも思います。気持ちが途切れそうになる、そこが勝負どころ。そこが仕掛けどころ。マゾっぽいですが。
叩けば響く子供たちとは異なり、オジサンの身体は意識的に刺激を与えないと、直ぐに硬直し、感覚が鈍くなってしまいます。心の葛藤に付き合っていたら、たぶん挑戦は続きません。
淡白に、機械的に取り組むこと、その継続の先にしか辿り着けない、次なる段階があります。勉強も同じ。たぶんブログも。
ナイター練習でランニングを続ける中年層らに、そんな姿勢を垣間見ることがあります。
R40、もう一段階上に進めたら、試合に出たいと思います。
(終わり)
陸上とトレカと息子
どうも、アイスバーの虜です。ソファーに腰を掛けて5本入り180円のそれをいただいているとき、幸せを感じます。
茹だるような暑さがやってきました。子供を走りに誘っても、さすがにノリが悪いです。
やる気スイッチを押すために、トレカの話をちらつかせてみます。賛否はあるでしょうが、時にはこんな手段も必要になります。そこは割り切って考えます。
現在、下の子は小学3年生。練習後に連れていく約束の場所も、公園から駄菓子屋、そしてコンビニからカードショップになりました。
ただ、息子の求めるカードショップは、本当に好きな人が足を運ぶ、いわゆるオタク向けショップ、地元ではなく県をまたぎます。
トレカはレアなものほど価格が高騰し、なかには1枚で100万円以上の値が付くものもあるようです。希少なものには資産性があります。それをできるだけ安く手に入れ、コレクションするもよし、高いときに売るもよし。私のしているトレードと全く同じです。今、そのカードがいくらなのか、子供も記憶しています。
欲しいカードは自分の小遣いのなかでやり繰りすることになります。お金が足りなければ、手伝い(労働)をするか、手持ちのカードを売る(資本)か、その両面を考えることは、子供が「お金」のことを考える機会になります。
オトウチャンも侮れないトレカの世界。試しに一度だけ、100円を使ってカード(ドラゴンボールヒーローズ)を購入してみました。
ミスターサタンが出てきました。
(終わり)
オジサンとピアノ
メモ書きブログも20本目。
見返してみると、なんともカタイ内容ばかりで、、これはイカンです。
オジサン臭が強すぎますから。消臭斬り!残念!
さて、競技場の近くで、いつもギターを弾きながら歌っている若者がいます。
あんな風に人前で音を奏でることができたら、R40の青春も少しは華やかであったはず、、たぶん。
その昔、R40はピアノを習わされていました。
週に一度のレッスンが、当時は地獄の時間でした。周りの友達はサッカーや野球をしているなか、なぜ自分だけが女の子のすることをしなければならないのか、まさか親は自分を女っぽくしたいのか、そんなことを思わない日はありませんでした。
鍵盤を見れば破壊したくなり、楽譜を見れば破り捨てたくなり、先生を見れば逃げたくなる、、幼少期のアカスケにとってピアノは苦痛そのものでした。
結局、部活を始めると同時にその呪縛から開放されましたが、そのときの安堵感と爽快感は、今でもはっきりと覚えています。
今、子供(長女)がピアノを習っています。楽しいと言います。
当然、その腕は私の及ぶところではありません。しかしこうなると、黙ってはいられないのがオジサンというもの。
娘がクラシックなら、オジサンはドラクエからやってみるかいな。
幼少期の苦痛とともに、微妙な腕を残してくれたピアノ。
少しずつ上達できればと思っています。
(終わり)
リミッターを解除する
夜間練習後、居間のソファでYouTube見ながら寝落ち… 誰にも起こされることなく、気付けば深夜。
今宵も規則正しく、心身抜け殻状態のまま主観を綴ります。
「できなかったことができるようになる。」
この瞬間に立ち会う機会の多いR40です。そこには挑戦を楽しむ子供たちの姿があります。
逆に大人になると、できることしかしない傾向にあるように感じます。言い方を変えると、挑戦しなくなります。成果や評価の上に生きるからでしょうか。効率や合理性を主張する声もあります。勿論、そこに良否はありません。それぞれ環境も異なりますから。
しかし、そうした大人の多くが今、社会の変化のなかで、苦境に立たされているようにも思えます。できること自体がなくなりそうだと。
未来を生きる子供たちに対し、人生無駄に遠回りのR40が、走りながら思うことが3つほどあります。
1:結果を恐れず、他人の評価を気にせず、色んな種目(分野)に挑戦すべきということ。
2:不得手とも向き合うなかで、自分の弱さを知り、それを克服する過程で得られる力は強さになるということ。
3:それは本質的な力であり、状況を問わない力であり、応用が利く力であるということ。
スポーツでもビジネスでも、環境に左右されない、突き抜けた存在がいます。自らのリミッターを解除して、新たな挑戦を求める人たちです。そこに昨日の自分を超えていく、大きな力が隠れていることを彼等は知っています。
ただ間違いなく言えることは、大人の挑戦は疲れます。
抜け殻からは以上です。
(終わり)
青春スポーツ
どうも、更新を怠ったR40アカスケです。
今宵のブログを綴ろうと、眼鏡姿のオフモードになろうかとした、そんな時に限ってコンタクトの洗浄液がない。
夜中のドラッグストア。店内CM放送でダンディ坂野がゲッツ!を連呼している。ひとりで笑っていたら、危ない人に思われる…と意識するほどツボに響く。化粧品の美人ポスターまでダンディに見える。
耐えに耐え抜き、洗浄液も無事にゲッツ!&ターンで、今に至ります。夜中の外出は控えましょう。
最近、競技場で旧友と再会することが多くあります。
この日も22年振りの再会がありました。私も含め、共通して30代後半から再び走りたくなったと言います。何のしがらみもなく、夢中になっていた頃の純粋な気持ちに、改めて向き合い始める御年頃なのかもしれません。
歳月を経ても、そこに違和感を覚えないのは、「競技」という共通項で繋がっていた、無垢な時代を知るが故であり、こうした関係性が青春スポーツの賜物かと、そう思います。
結果を競い合っていたライバルたち。時に成功に嫉妬したり、失敗を願ったり。でもオジサンになると、挑戦しようとする相手の姿に深い敬意を感じます。
22年振りの仲間は、次のフルマラソンに備え、汗まみれになりながら苦悶の表情で走っていました。
ぜひ、勝利をゲッツ!してほしい。
(終わり)
ホントに雑記 其の1
嬉しいことにまた星が!本当に感謝です。
こうなると、自分のメモ書きブログの中身が、少し恥ずかしく思えてきました。しかも、星をくれた方々のブログを見れば、なんということでしょう。お洒落で知的で、もう凄すぎて絶句。秘孔を突かれた気分です。
ということで、今宵はケンシロウのこと。
今、息子のなかで「北斗の拳」が大変熱いようです。
かつての私と同じように、乱世の漢たちの生き様に、魅せられたのかもしれません。
時々、風呂から息子の歌う「愛をとりもどせ」が聞こえてきます。
ちなみに、妻が学生時代、コンビニバイトをしていたときに、ハイボイスの人がよく買いに来ていたとか。
この不屈の名作、偉大なる長兄(ラオウ)の苦悩と、時折見せる優しさが、不覚にもR40の涙を誘います。
さらば強敵(とも)よ。
先日のこと、その「北斗の拳」と「ビックリマン」がコラボした「北斗のマン」というシール付きの菓子を、コレクト好きの息子がひとつ買ってきました。すると、いきなりケンシロウをゲット。
ここで止められないのが子供というもの。翌日、更にひとつ買ってきました。そして当ったシールを私に見せて、どんなキャラクターか尋ねてきました。
元祖断末魔。なかなかのレアキャラだよと伝えておきました。でも、信じていないようでした。
こんな日常しかないR40です。とりあえず7つの星を目指します。
(終わり)
強くて優しい人
最近、記事に星をくれた人がいました。私としては驚きで、恥ずかしくも嬉しい出来事です。
R40、誰かに褒められることもなければ、叱られることもない、孤独な生き物です。娘には一応家族と呼ばれています。
さて、今宵もほぼ主観です。
連休中も息子と競技場に足を運びました。
子供との時間は十分過ぎる程ありましたが、一緒に走っている時間が、他のどの時間よりも、充実感で満たされていた気がします。
練習ではいつも、楽しさがキツさを超えてきます。それだけに調子に乗って、未だに怪我に悩める私です。
何にせよ、独りでは得にくい感覚があります。
何かを成し遂げることを決めたとき、孤独と向き合う意志力が試されます。その過程を共有できるパートナーの存在ほど、貴重なものはない気がしています。
私の知る強くて優しい人たちは、その両方を理解している人たちでした。
鍛錬とは自分と向き合い、欠陥に気付き、それを自分で修復していくことの繰り返しです。
高みが高いほど、追及すればするほど、孤独は近くなるものかと思います。
だからこそ、仲間には、子供たちには沢山の金を...もとい星をあげよう、
そう思うのであります。
(終わり)
長い目を持つということ
本日は陸上の記録会(上の娘)、寝不足の私はタフマン飲んで応援しました。
エントリー種目は走り幅跳び。結果は3m67cmで9位(58人)でした。
記録会ということで、予選は試技が2本のみでしたので、親心としては決勝(上位8名)で+3本挑戦させてあげたかったのですが、競技ルールなので仕方がありません。
昨年の最終試合と同様に、TOP8まであと一歩というところに収まりましたが、内容に成長が見られましたので、この結果を前向きに捉え、次なるステップに繋げてほしいと願います。
小さな成果でも、確かな一歩を積み重ね、過去の自分に挑戦し続けることができれば、結果とは焦らずとも付いてくるものです。大切なことはその過程を楽しむこと。裏方であれば、楽しめるような環境を創ること、そう思います。
GW中の記録会ということもあり、保護者の姿が多く見受けられました。
静かに見守る人、檄を飛ばす人、細かく指示を出す人、睡魔に耐える人(私)。そして、半眠の耳に聞こえてきます。
どの子が勝った…負けた…記録を出した…とか。誰もが「結果」を気にしています。
そんな時、思います。私は子供の成長曲線を長い目で見てあげようと。
子供の成長特性を調べるほど、私は子供たちが自信を持てるように、また自信を失わないように、その子の特性に応じた適切な指導や指示、言葉を選ぶ必要性を感じます。そうしたことを知ることが、応援するということと、解釈しています。
例えば、成長期に入る前と、成長期が落ち着いた後に、無理な変化を求められ、そこに才能の欠如を感じ、それまで続けていたスポーツを辞める子供が多くいるそうです。
大半は保護者の判断だそうです。
(終わり)
言葉の前に
子供たちと一緒に動くと、子供の声が聞ける楽しさがあります。
子供たちの言葉は直感的で、時に残酷で、聞いていて実に面白いです。録音して当事者に聞かせたいくらい。
「あのオジサン、偉そうに言ってたけど、走ったらオレの方が速いし…」
「良いって言ったり、悪いって言ったり、皆(大人)言ってること違うし…」
「協力しなさいって、自分(大人)がしてないし…」
子供に限らず、人間は自分に都合を合わせます。私自身もそう。幼少の記憶では、褒めてもらったことしか覚えていません。また褒めてくれた人の「今」しか関心がなく、見て確かだと感じたもの(手本)と、そこに基づいた言葉しか、記憶に残っていません。
見て真似る子供には、言葉の前に見せる必要がります。私が子供と体を動かす理由です。その上で、言葉は子供の性格や捉え方、タイミングまでを考慮したものである必要があります。そうでないと、「あのオジサン…」って言われてしまいます。
指導者の教えは、伝え方は違っても本質的な部分では、然程の違いは無かったりします。問題は捉える側に寄せた伝え方であるか、そういうことだと思います。
幼い子供に対しては「昔は凄かった」という理屈は、あまり力を持たないことを知ると、言葉を伝えるに相応しい今の姿が大切なことに気付きます。
だからこそ、一緒に動けるオジサンである必要があるわけです。
「あのオジサン、只者じゃない…」
そう思わせたら、子供たちにもR40の言葉は届くはず…….たぶん。
(終わり)
趣味から学ぶ 其の2
相変わらず踵痛が回復せず、走れない苛立ちが続く私であります。
こんな時は相場と一緒で痺れを切らしたら負け。陸上もFXも、敗因は大凡自分の心にあったります。
相場は結果を求めすぎると、驚くほど負けます。デイトレやスイングでどうやったら勝てるか、これまでもテクニカルやインジの読み方に対して、習得時間は積みましたが、私の場合は投資本のタイトルにあるような「こうすれば勝てる」的な明るい結果には繋がりませんでした。
ただ、なぜか失敗しているときは、目先の値動きに翻弄されていたり、負けを取り返そうと感情的になっていたり、過信していたり、損切を曖昧にしたりと、心の安定度合に因ることが殆どでした。
事実から読み取れる幾つかのパターンを知り、失敗しても無理のないところで、先回りしてみると、案外上手く立ち回れることが多くなった気がします。手法はメンタルの上に成り立つ、そう考えるようになりました。
「木を見て森を見ず」
仕事でも、家庭でも、陸上でも、相場でも、そう思うのであります。また、それでも沢山失敗します。その時は「山」まで見ることにしています。更に失敗します。そしたら一旦「空」を見て休みます。
痺れを切らしてしくじった「激痛」からの教えです。
振り出しに戻る…です。